ガンダム・アナリティクス

無数のモビルスーツが宇宙を駆け、様々な人間ドラマが交錯するガンダムの世界。我々はその膨大な記録(アーカイブ)をデータとして解析し、戦いの裏に隠された戦術、キャラクターの深層心理、そして宇宙世紀が示す未来を読み解いていく。

【機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ考察】映画版の結末はどうなる?ハサウェイは救われるのか?

 

映画館で観たか? なんかこう、スッキリしないというか、胸に重いものがズシンと残る感じ、しなかったか。

「ハサウェイ、なんであんな戦いを…」「あの結末、救いがなさすぎないか?」

俺もそうだ。 観終わった後、あの暗い劇場のシートでしばらく立ち上がれなかった。 でも、なんでこの作品がこんなにも俺たちの心を掴んで離さないのか、その理由をずっと考えてたんだ。

実はこの『閃光のハサウェイ』、ガンダム史における「2つの暗黒期」に生まれた奇跡みたいな作品なんだよ。 原作小説が生まれた1989年と、映画が公開された2021年。 この混沌とした時代背景を知ると、ただの鬱アニメじゃない、もっと深いメッセージが見えてくる。

今日は、なぜ『閃光のハサウェイ』がこれほどまでに人の心を動かすのか、その誕生秘話から、あまりに有名なあのバッドエンドの真相、そして映画版に込められた「新たな希望」まで、徹底的に語り尽くしていこうと思う。

この記事を読めば、君が感じたあのモヤモヤの正体が、きっと分かるはずだ。

そもそも『閃光のハサウェイ』は、始まりから「詰んでた」物語だった
まず、基本情報からおさらいしておこうか。 この物語の原作は、ガンダムの生みの親である富野由悠季監督が自ら書いた小説で、1989年に発売された。 そう、あのアムロとシャアの最終決戦を描いた『逆襲のシャア』の、ほんの直後の話だ。

主人公は、『逆シャア』で13歳の少年だったハサウェイ・ノア。 彼が25歳の青年に成長し、反地球連邦政府運動「マフティー」のリーダーとしてテロを仕掛けるっていう、かなりヘビーな内容だ。

この小説版、一言で言うと「超難解なバッドエンド」。 これに尽きる。

後味の悪さはガンダムシリーズでも屈指で、「絶対に映像化は無理だろ」って言われ続けてきた。 異形とも言えるクスィーガンダムやペーネロペのデザインもさることながら、とにかく物語が救いようのない絶望に向かって突き進んでいく。

この「避けられなかった鬱展開」こそが、『閃光のハサウェイ』を語る上で絶対に外せないポイントなんだ。

不遇の10年を越えて。 ゲーム『GジェネF』が繋いだ命。

小説が出た後、実は10年くらい『閃光のハサウェイ』は派手にスルーされてた。 一部の熱狂的なファンだけが知る、いわば「知る人ぞ知る」カルト的な作品だったんだ。

そんなハサウェイに転機が訪れたのが、2000年に発売されたゲーム『SDガンダム GGENERATION-F』。 俺もこれで初めてハサウェイの物語に触れたんだけど、マジで衝撃だった。

あの難解で複雑な小説3巻分のストーリーを、たった3ステージに凝縮。 これがめちゃくちゃ分かりやすかった。 声優陣も豪華で、ハサウェイ役は『逆シャア』から続投の佐々木望さん、ギギ役は林原めぐみさん、ケネス役は立木文彦さんと、とんでもないメンバーが声を当ててた。



Gジェネ名物の3Dムービーも相まって、物語にグイグイ引き込まれる。 そして、多くの人がこのゲームで初めて、あの衝撃的な結末を知ることになった。 あまりの後味の悪さに、いろんな意味で伝説になった瞬間だ。

クスィーガンダムのデザインも、小説の挿絵にあった怪物的なデザインから、みんながよく知る「あのへの字口がある」カッコいいデザインに変更された。 このGジェネ版のデザインがあったからこそ、後のプラモデル化やフィギュア化に繋がっていったと言っても過言じゃない。



まさに、ゲームがこの物語の命を繋いだんだ。

なぜ小説はあんなに分かりにくい?富野節のリアルすぎる世界
「ハサウェイの小説、読もうとしたけど挫折した…」ってやつ、結構いるんじゃないか?

正直に言う。 あれは、めちゃくちゃ読みづらい。

その理由は、富野監督が「映像」という制約から解き放たれて、自分の書きたいことを100%ぶちまけてるからだ。 特に、以下の3つの要素が難解さに拍車をかけてる。

リアルすぎる状況描写:。

モビルスーツ戦よりも、政治的な駆け引きや人間関係の描写がとにかく細かい。 誰がどの組織に属していて、どんな思惑で動いているのか、一度読んだだけでは到底理解できない。

複雑すぎる心理描写:。

登場人物たちの心情が、地の文で延々と語られる。 特にハサウェイ、ギギ、ケネスの三者の感情は複雑に絡み合い、誰が正しくて誰が間違っているのか、簡単には判断させてくれない。

SF小説特有の難解さ:。

専門用語や独特の言い回しが、これでもかと出てくる。 「未加工の岩石みたいな表現がゴロゴロ次々転がってくる」って感じ。 アニメなら映像で補完される部分も、小説ではすべて文字情報として叩きつけられるから、読者は振り落とされないように必死についていくしかない。



でも、この読みにくさこそが、キャラクターに生命を吹き込んでいるんだ。 シナリオ進行には一見無関係に見える描写、例えば登場人物の性癖や過去の恋愛遍歴まで書くことで、彼らが記号じゃなく、「宇宙世紀に生きる生身の人間」として立ち上がってくる。

この没入感が、富野小説の最大の魅力であり、同時に最大のハードルでもあるんだよな。

鬱展開は必然だった?富野監督の「ガンダム破壊計画」。

じゃあ、なんでこんなにも救いのない物語が生まれたのか。

それは、富野監督にとって、この物語こそが「ガンダムの本当の終焉」だったからだ。

思い出してほしい。 『逆襲のシャア』のラストを。 アムロとシャアという二大英雄の退場、そしてアクシズ・ショックという奇跡。 あれでガンダムは終わったはずだった。 でも、世間はそれを許さなかった。 すぐに『ポケットの中の戦争』みたいな新作が作られ、ガンダムは続いてしまった。

富野監督は、派手な奇跡や魔法のようなクライマックスでは、この巨大な物語を終わらせられないと悟ったんだ。

ならば、どうするか?

「夢のない、地獄のような現実を投げつけるしかない」

その「地獄のような現実」こそが、『閃光のハサウェイ』なんだ。 アムロのような超人的な活躍も、シャアのようなカリスマ性もない。 主人公ハサウェイは、過去のトラウマに苦しみ、理想と現実の間で揺れ動き、結局は巨大なシステムに押し潰されていく。



テロリストであるマフティーが、連邦政府という巨大な組織に勝てるわけがない。 モビルスーツ1機の性能が良くたって、戦争の勝敗は決まらない。 そんな当たり前の現実を、これでもかと見せつけてくる。

これは、アムロが認めなかった戦い方だ。 つまり、ハサウェイのやっていることは、最初から「間違い」だと示されている。 だから、あの結末は必然だったんだ。

劇場版の革命!これはもはや「怪獣映画」だ。

そして2021年、ついに『閃光のハサウェイ』は劇場版として公開された。 正直、俺は予告編を観た時、「正気か?」って思ったよ。 あのラストを劇場でやったら、お通夜ムード間違いなしだからな。

でも、劇場で観て度肝を抜かれた。

なんだ、あの映像と音響は。

もはやアニメじゃない。 これは「怪獣映画」だ。

特に夜の市街地でクスィーとペーネロペが激突するシーン。 ビルの間を縫って巨大な人型兵器が飛び回り、ビームが空を裂き、街が破壊されていく。 その重厚感と臨場感は、今までのガンダムとは明らかに一線を画していた。

それもそのはず、この映画、音響は最初からドルビーアトモスで作られているし、作画も従来の手描きメインではなく、3Dをメインに据えて制作されている。 ミノフスキー・フライトで初めて重力下を自由に飛べるようになったガンダムの戦闘を、誰も見たことがないレベルで描く。

そのための技術革新だったんだ。

この異常なまでのこだわりが、あの芸術品のようなクオリティを生み出した。 それはまさに、物語の結末を知っているファンでさえも黙らせるだけの、圧倒的な「体験」だった。

ハサウェイはなぜ敗北したのか?2つのシンプルな答え
物語の核心に触れよう。 なぜ、主人公であるハサウェイは完膚なきまでに敗北したのか。

理由は2つある。

物語論的な理由:勝利の女神「ギギ」に選ばれなかったから
作中で謎めいた美少女ギギ・アンダルシアは、実は「生きたトロフィー」であり、「勝利の象徴」として描かれている。 彼女を手に入れるものが、この物語の勝者になる。 しかし、ハサウェイは最後まで彼女の心を完全に掴むことはできなかった。

地に足の着かない理想論ばかりを振りかざすハサウェイよりも、現実を知る大人であるケネスに彼女は惹かれていく。 勝利の女神に見放されたハサウェイが負けるのは、当然の帰結だったんだ。

現実的な理由:学生サークルがプロの軍隊に勝てるわけないから
もっとシンプルな話だ。 マフティーは、しょせん大学生のサークルのような小規模な武装集団に過ぎない。 対する連邦軍は、プロの軍人、プロの軍隊だ。 最新鋭のモビルスーツが1機あったからって、どうにかなるレベルじゃない。

戦術的、戦略的に見れば、アリがゾウに挑むようなもの。 勝てるわけがないんだよ。 これまでのガンダム主人公は、必ず勝てるだけの「理屈」があった。 でも、ハサウェイにはそれがなかった。

この夢も希望もない敗北こそが、富野監督が描きたかった「現実」なんだ。

さあ、一番気になるのはここからだ。 3部作として公開される劇場版。 その結末は、あの絶望的な原作と同じになるのか?

俺は、「NO」だと思ってる。

もちろん、ハサウェイが勝利して生き残るような、ご都合主義なハッピーエンドにはならないだろう。 そんなことをしたら、『閃光のハサウェイ』という物語そのものが台無しになってしまう。

でも、原作とは違う「救い」が描かれる可能性は、大いにある。

富野監督は映画版についてこう語っている。 「新たな解釈を持って、ガンダムの総体の決着への道を開くもの」。

「決着をつける」じゃない。「道を開く」んだ。

これは、原作が持っていた「終わりの物語」から、「始まりの物語」へと目的が変わったことを意味する。 ガンダムという物語がこれからも続いていく以上、ニュータイプが完膚なきまでに敗北する絶望的な結末は、もはや必要ないんだ。



じゃあ、どんな救いが考えられるか?

例えば、死の瞬間にクェスの許しを得たり、アムロやシャアが迎えに来たりする幻想的な描写。 あるいは、自分の意志を次の世代に託すことに成功する、といった展開だ。

そして、その鍵を握るのは、間違いなくケネス・スレッグ大佐だ。

小説版のケネスとはデザインも設定も少し違う映画版のケネス。 彼は、地に足の着いた大人であり、理想論に溺れるハサウェイを現実に引き戻せる唯一の存在だ。 彼がハサウェイに「生きろ」と手を差し伸べる。 そんな展開があるんじゃないかと、俺は密かに期待してるんだ。

苦しみ続けたハサウェイに、どんな形であれ「救い」が与えられる。 劇場版は、そのための物語なんだと俺は信じたい。

閃光のハサウェイ』は、ガンダムの人気が下火になりかけていた1989年という「暗黒期」に、物語を終わらせるために生まれた。 そして、疫病で世界中が混沌としていた2021年という、もう一つの「暗黒期」に、新たな始まりを告げるために劇場で公開された。



政府への不信、見えない敵との戦い、何が正しい情報か分からない混乱。 映画が公開された時代の空気は、奇しくもハサウェイが生きた時代と重なる部分が多かった。 だからこそ、超人ではない、傷つき、悩み、間違える等身大のハサウェイの姿に、俺たちは自分を重ね、心を揺さぶられたんじゃないだろうか。



これは、ただの鬱アニメじゃない。 タイトルに「閃光」とあるように、絶望の闇の中に、一条の希望を描こうとした物語だ。

続編がいつになるかはまだ分からない。 でも、あのクオリティで最後まで描き切ってくれるなら、俺はいくらでも待つつもりだ。 ハサウェイという男が迎える結末、そして彼に与えられるであろう「救い」を、この目で見届けるまでは。

さあ、もう一度、あの濃密な映像体験に身を委ねてみないか? きっと、最初とは違う「光」が見えるはずだ。